糸の道紀行 塩尻峠を越えて岡谷へ

塩尻峠1060mです。過去には例の中山道ツーリング等で何回か来た事あります。当日は峠からの眺めが素晴らしかったです。

・・・・9月のTOMは河合町角川の政井みねの墓をお参りして飛騨古川では工女ゆかりの宿八ツ三旅館に行って見学・・・という具合でこの糸の道紀行を始めたのですが、元々のアイデアはあの「ああ野麦峠」を読んで'79年封切り大竹しのぶ主演の同名映画を見て明治時代の糸引きの娘たちが歩いたコースを是非走ってみたい・・・・というものでした。
前回旧野麦街道紀行ではほぼ資料の通りの道も行けて長年行きたかった旧野麦街道も非常に美しい紅葉黄葉の中パスハンターで行く事が出来ました。峠からの乗鞍岳のパノラマもこれ以上ないと思われるほど雲一つない快晴で大成功のツーリングでした。
岡谷は製糸工業がさかんでしたが、今回は、事前に岡谷でただ一軒の製糸工場である宮坂製糸所さんに是非工場見学させて頂けませんか?とお願いしたら快く応じて頂けました。そればかりか宮坂社長さんから岡谷の製糸関連の(特に政井みね関連)の見学会を車で廻ってして頂いて大変お世話になってしまいました。宮坂製糸所の備品を運んで撮影した映画「ああ野麦峠」の撮影の話とか興味深い話もして頂きました。いやはや、小生の「糸の道紀行」ですが、予想もしない展開で思った以上のツーリングが出来たと思っています。


■走行:2012.11.18
■コース: 松本〜善光寺街道〜村井宿〜中山道塩尻宿〜塩尻峠〜岡谷 走行:30km

■参考文献

■信濃路をゆく 著者 児玉幸多
■出版:学習研究社

今は絶版で入手困難ですが中古品がamazonで入手できます。
一体当時の工女たちはどのルートで行ったのか?松本までは野麦街道で来て、その後は察するに善光寺街道を南下して塩尻宿で中山道に入って塩尻峠を越えて岡谷へ・・・・というのがまあ一番無難なルートだと考えています。で忠実に郷原宿まで行くのではなくて村井宿からは平野ですので脇往還があったと考えています。今回は最短になるそのルートで走行しています。この本は善光寺西街道(洗馬〜松本宿〜稲荷山宿まで)と中山道(芦田宿〜本山宿)が載っています。

■走行ルートマップ

■宮坂製糸所見学記

現在岡谷でただ一軒の製糸所の宮坂製糸所です。快く見学に応じて頂きました。有難うございました。

門から入った所。左の建屋が製糸所です。

製糸はどのようにして行なうのか?まったくの素人の小生ですが、宮坂製糸所から資料を頂いて説明もして頂いてまあなんとなく分かって来ました。絹の材料の生糸ですが、繭から取り出します。繭は蚕農家から購入するのですが、「ああ野麦峠」では製糸工場側が繭調達の際インチキをして農家から繭を買い叩く事が書いてあります。繭は大変高価だそうです。で一旦高温で乾燥させてから倉庫に保管します。岡谷市内には当時の繭倉庫がいくつかあります。使用する際には熱湯で煮て目的の太さの糸を繰り出して枠に巻き取ります。一定の(高価な)繭からどれだけの製品になる生糸を取り出すことが出来るか?ここが良い工女とそうでない工女の分かれ目でした。高価な繭から製品にならないクズ糸を多数出すと罰金となり給与から差し引かれていたそうです。

・・・・・ここ宮坂製糸所ではいろいろな太さの生糸を注文に応じて小ロットから生産しています。自動操糸機では一度に300個の繭から操糸して極太の生糸を取り出すことも可能だそうです。
聞く所によると今日本で製糸会社は4つしかなくてそのうちの1つがここ宮坂製糸所で特に映画「ああ野麦峠」で見られた明治から昭和にかけて人の手による「諏訪式」と「上州式」で操糸を行なっているのはここだけだそうです。今回工場が休日だったので動いてなくて設備見学でしたが、来年あたり平日に行って是非動いている所を見学させて頂けたら・・・・と考えています。

諏訪式の仕事場です。諏訪式は中国に発する絹製糸技術が中国からシルクロード西廻りでヨーロッパ経由で日本に来た方法だそうです。糸の張力は低くて柔らかい風合いの糸になります。用途は主に和装用だそうです。

映画「ああ野麦峠」で行なっていたのはこの方法。

こちら上州式は中国からシルクロード東廻りで来て日本で改良され江戸後期から行なわれている方法だそうです。素朴さを求めるにはなくてはならない素材(方式)で用途は主に紬(つむぎ)だそうです。

台所のシンクのような場所にお湯を張って繭を入れて糸を繰り出します。(諏訪式)

自動操糸機。
1度に300繭〜から糸を繰り出して操糸します。行なう方式は「諏訪式」の自動操糸機だそうです。いろいろな太さの生糸を生産出来ます。(主に極太生糸)


中国やブラジルで生産されている生糸製品は主にこの方式だそうで大幅なコストカットが可能だそうです。

大型の巻き取り枠で巻き取られた生糸。この後枠から生糸を外して出荷用の箱に入れます。それから出荷されます。

生糸が出来上がって出荷前の状態です。ここ宮坂製糸所ではこの段階まででこれ以後は・・・・・
合糸→撚糸→精練→染色→製織→絹布地→裁断→仮縫→縫製→仕立→出来上がり・・・となる訳です。


いやはや、一着の服ですが凄い手間暇がかかっている訳ですね。

■政井みねのいた山一林組は今どうなっているのか?

諏訪湖の釜口から天竜川方向です。向かって右側(岡谷側)に製糸工場が多数建っていたそうです。当時の写真を見るとこのあたりに水車が多数あって水量が少ない時期は製糸工場社長が自ら水車を足で廻していた事が「ああ野麦峠」に書かれています。

諏訪湖から八ケ岳方面。雪を頂いて絶景でした。最近諏訪湖は厳冬期でも全部は結氷しないそうです。

「ああ野麦峠」の主人公、政井みねはここ山一林組で仕事をしていました。山一林組は岡谷に工場を3つ持っていたそうです。写真の建屋は大正9年建築のもの。みねの時代はこれの1つ前の建物でした。今は岡谷絹工房と名前が変わっています。

山一林組の中です。今はこのように機織機が入っていますが、当時は事務所だったそうです。

みねの兄辰次郎は「ミネビョウキスグヒキトレ」の電報を受け取って夜も歩き続けて飛騨河合村角川からたった2日でここまで来ます。

ここでみねを引き取って9日かかって野麦峠を越えて飛騨河合村角川までみねを背負って帰ったのでした。


※みねの兄辰次郎は野麦峠にある「ああ野麦峠」石碑の完成の昭和43年までお元気でした。(92歳で没)

現物はあまり見たこと無い生糸の原料の繭です。
山一林組の中に展示してありました。

ここで作っているいろいろな絹製品が展示してありました。
小生はいくつ絹製品を持っているのか?ひょっとしてここの製品があるかも?

写真は山一林組2階のとある部屋のドアですが・・・・・ここ山一林組で昭和2年8月経営側と工女側で労働条件に関する大規模な争議が勃発、山一林組工女約1300名が一致団結してこの部屋で経営側と争いました。

ちなみに・・・・みねの時代の明治後期では労働時間はおおむね以下の通りでした。(11月)なお労働時間は季節によって変動がありますが日の長い夏(6月頃)はAM4時半から仕事を始めて終業はPM7時半までのやはり14時間は働いていました。

予鈴    5:45     (起きろ〜〜〜という合図)
朝食     6:00〜6:15  (食事時間はたった15分だった)
就業    6:15〜11:00    
昼食   11:00〜11:15 (やはり15分のみ)
就業   11:15〜16:40
小憩    16:40〜17:00 (夕食と思われます)
就業   17:00〜21:00 (風呂は終業より1時間)

就労時間は計14時間10分

労働基準法も組合も無い、労働協定もなく厳しい過酷な条件で工女たちは懸命に働いていました。・・・・そんな説明を宮坂社長から説明をして頂きました。この話は「ああ野麦峠」に詳しく書かれています。

山一林組の製糸場があった場所。みねもここで働いていました。今は駐車場になっていて当時の面影はありません。

■ツ−リングレポートは次へをクリックして下さい。

2012.11.20