忠臣蔵歴史紀行

赤穂高取峠の浅野内匠頭の急を知らせる早駕籠モニュメント。第1便の使者は萱野三平と早水藤左衛門でした。

今更「忠臣蔵」がどういう物語だったのかを知らない人はいないと思いますが、ざっと簡単に。今を去ること310年前時は元禄の時代、関ケ原合戦から約100年後で徳川五代将軍綱吉の時代、赤穂藩の浅野内匠頭は幕府より勅旨饗応役を仰せつかりその指導役が高家筆頭吉良上野介で、事件はその最終日、元禄14年3月14日江戸城松の廊下で発生。未だ原因は不明で切り付けられた上野介は傷は比較的軽傷で済んで問題は内匠頭の方である。殿中で刃傷沙汰はご法度で立腹した綱吉の命により即日切腹。事件発生は午前10時頃、切腹はその日の午後6j時頃でした。それからこの物語が始まりますが、300有余年の時を経て今なお日本人の心に強く響いて語り継がれる物語となっているのはご存知のとおりです。TV映画や芝居、講談など沢山の役者に演じられて語り継がれています。そんな「忠臣蔵」が小生は大好きで1つ物語の舞台を実際に是非訪ねてみたいと考えるようになりました。資料本を読んでTV映画も見ていや、何回見ても面白いですよね。
このファイルでは大きく分けて「西国街道」「赤穂」「京都・山科」「吉良町」の4つに分けて書いてみます。よろしかったら是非実際に訪ねてみて下さい。映画や本を見たりするだけではなくて実際に物語の舞台に行くと得られる物は大きいと考えています。

■西国街道編

一体早駕籠はどのルートで行ったのか?というのは非常に興味がありました。江戸から東海道を下って行って安全に早く行くのは遠回りでも海や湖はまず行かないと考えられるので見付宿からは姫街道、宮宿からは美濃路を行って垂井宿からは中山道を行って京からはこの西国街道を行ったと考えています。江戸〜赤穂間155里約620kmを早駕籠は4日と半日で赤穂へ到着します。

■参考文献

■実録四十七士
■出版:学習研究社

←写真や詳しい絵図で元禄赤穂事件の全貌を分かりやすく解説しています。歴史群像特別編集。討ち入りの際の着物は実は火消しの火事装束だったというのはこの本で知りました。




■忠臣蔵全名鑑
■小池書院出版
登場人物の詳しい解説をその子孫の方々が執筆していてこれ以上ない忠臣蔵登場人物伝だと考えています。→


やはり物語や登場人物の事が分かってないと全然面白くありません。事前にちょっと勉強が必要です。

■推薦DVD

■'58年大映作品。
←長谷川一夫、市川雷蔵、滝沢修などこれまた映画黄金時代のどうでしょう、3本の指に入る秀作です。 市川雷蔵の演じる浅井内匠頭は素晴らしいです。







■'85年日本TV製作作品
近見た、'85年日本TVで紅白歌合戦の裏番組で製作された作品。里見浩太郎、風間杜夫、森繁久弥他・・・・・
長さも約4時間と手頃で「赤垣源蔵徳利の別れ」や「南部坂雪の別れ」など有名エピソードも網羅して豪華出演者で楽しめる作品です。→

西国街道沿い箕面市にある萱野三平邸。三平は第1番目の使者で江戸から赤穂まで早駕籠で内匠頭の急を知らせました。

元禄時代の萱野三平邸の模型。三平は忠孝の間で思い悩み自決してしまいます。時に元禄15年1月14日、28歳の若さでした。自決は長屋門の中の部屋で現在もそのまま保存されています。

実家の裏にある三平の墓。討ち入りはかないませんでしたが、三平は義士の一人と考えられています。→

三平切腹の間です。
長屋門の中の1部屋、この場所で三平は切腹しました。
内匠頭の命日を選び、泉岳寺の方角を向いて果てました。
後に内蔵助は「もし三平が生きていたならばかならず義挙に加わっていたでありましょう」と言っていたと伝えられています。

■赤穂編

赤穂駅にある内蔵助の辞世句。「あらたのしや おもひは晴るる 身はすつる 浮世の月に か々る雲なし」 時に内蔵助45歳の生涯でした。この事件が無かったらごく平凡な家老職で終わっていたはず・・・・・でした。

赤穂城内大石内蔵助邸長屋門。
江戸鉄砲洲赤穂藩上屋敷から出発した早駕籠は正にここ、内蔵助邸長屋門に19日AM4頃に到着したのでした。その頃内蔵助はまだ床の中でした。


「御城代〜〜〜〜〜!! 一大事でござりまする〜〜〜〜〜!!」ここから忠臣蔵の物語が始まります。屋敷は享保14年の火事で焼けてしまいましたが、庭とこの長屋門が残りました。まさに早駕籠が到着した当時のまま残っています。

播州赤穂城です。赤穂城は平城で天守はありません。内匠頭は5万3千石の赤穂藩を棒に振っての刃傷でお家は断絶、自身も即日切腹の厳しい沙汰が待っていました。

2009年1月走行

花岳寺。浅野三代の墓の他、四十七士の墓もあります。
義士木像館があって、一人一人全部48名(萱野三平含む)の木像があります。33回忌の時に製作開始、100回忌の時に完成しました。京都の名人の作と言われています。

花岳寺内四十七士の墓。東京泉岳寺にもあり、他にもいくつかあります。この四十七士の「義」に生き、「義」に死んだ男たちの物語は正に武士道の鏡として300有余年を経た今日でも語り継がれていて今後も風化することなく後々まで伝えられて行くべきだと考えています。

■京都・山科編

2008年12月走行

赤穂での残務整理を終えた内蔵助一家は元禄14年6月28日、ここ山科で閑居生活を始めます。当初の仕事は内匠頭の舎弟大学による浅野家の復興でした。各方面に手を廻して復興を図りますが・・・・・急進派からは上野介討つべしと矢のような催促が・・・・・・

大石神社義士宝物館。

ここには実際に討入りに使用した衣装や武器類、呼子、内蔵助が使用した采配、各人の遺書など展示してあります。思わず見入ってしまいました。一部の衣装には血のりがついたままです。

http://www2.117.ne.jp/~akoooisi/rink/houmotu.htm

京都・祇園一力亭。元禄15年4月、妻のりくと子供3人を但馬豊岡に帰した内蔵助はこのころより祇園や種木町、京・島原遊郭などで遊び始めます。内蔵助が特に懇意にしていたとされる由緒ある御茶屋「一力亭」です。

内蔵助は伏見遊郭種木町にも行っていました。「よろずや」と「笹屋」がお気に入りだったそうです。

京都・島原遊郭の入口です。内蔵助はここにも足しげく通ったようです。

側女・お軽のものとされる墓。1番右側の「清誉貞林法尼」とあるのがそれです。
忠臣蔵のヒロインは・・・・・・と考えるにやはり元禄15年春にりく始め子供3人を里へ帰して遊び始めた内蔵助を心配した周囲の者が世話した京都二条寺町二文寺屋次郎兵衛の娘、「軽」ではないかと考えています。まだ18歳、これで遊郭通いも少しは収まるだろうと思われました。墓は上京区千本今出川の上善寺にあります。名前ですが「可留」がどうやら正しいようです。→

■幡豆郡吉良町編

2009年1月走行

吉良家の菩提寺の華蔵寺。上野介の墓や自身の木像があります。

吉良上野介の墓。元禄15年12月15日未明赤穂浪士の討入りで死去。好きだった茶会が仇となってしまいました。この他にも討入りはないと油断していたものと思われます。往年62歳の生涯でした。

華蔵寺御影堂。この中に上野介木像が安置してあります。ご開帳は年に何回とありません。前もって確かめて行った方が無難です。

吉良上野介木像。自ら色を塗ったという木製の像です。50歳の頃だと言われています。

吉良公が赤馬に乗って領地を廻ったコースが赤馬の径として整備されています。地元では名君として親しまれていました。

赤馬の径はこんな感じです。自転車で廻って良いサイクリングコースになっています。

清水一学の墓。炭小屋に上野介と一緒に隠れていたところを討たれてしまいました。映画では2刀流の凄腕のようになっていますが・・・・・???墓は吉良町円融寺にあります。

■編集後記

もう小さい頃から「忠臣蔵」の映画やTV見ていますが・・・・・12月になると毎年の様にやっていました。資料によると50本以上の映画やTV番組があります。映画ではやはり・・・・・上で紹介した'58年大映の作品が好きですね。内蔵助はやはり・・・長谷川一夫が存在感があってはまり役ですよね。内匠頭は市川雷蔵がやはりどの内匠頭よりも出来が良くて本物も多分こんなんではなかったか?と思わせる良い演技ぶりだと感心しています。TVではNHKの大河ドラマを良く見ていました。御形拳さんの「峠の群像」、もう1つ、中村勘三郎氏の「元禄繚乱」を熱心に見ていました。両方とも佳作で最後まで見飽きずに見ていました。民放でも上の'85年紅白歌合戦の裏番組で製作された里見幸太郎主演の「忠臣蔵」ですね。12月になるたびに楽しみにしているのですが・・・・最近は他の楽しみが増えたのかとんと放送が無くなってファンとしては淋しい限りです。いつまでも日本人の心に響く歴史的事実であり、四十七士の主君に対する「義」の心は何か心を打つ熱い物を感じます。願わくば・・・・・回数は減っても12月は「忠臣蔵」をどこの放送局でも良いので是非お願いしたいですね。

2009年12月走行

2012.12.14